指先のきらきら

マニキュアを塗っている。

指先は自然と目につくから良い。
子どもの夜泣きに付き合って、寝不足で、一日中部屋着でも、ノーメイクでも、きらきらしたネイルを見れば少し気分が上がる。

甘皮を整え、透明な下地を塗り、慎重に色を重ねてゆく。
利き手のネイルは難しい。注意していても刷毛さばきがうまくゆかず気泡が入る。
時間をかけて丁寧に塗り、完璧に乾かしたつもりでも、なぜか翌朝になると爪にお布団のシワが付いていたりする。正直、ネイリストにお任せするか、ネイルチップを使った方がよほど綺麗だと思う。

しかし、育児と仕事と家事とが24時間ごた混ぜで何ひとつ完了しない生活のなかで、私にとってこれは達成感を得られる貴重な取り組みである。趣味というより自己を保つための儀式に近い。

 

話は変わるが、小さいころ母のドレッサーを漁るのが好きだった。
ボックスタイプになっている椅子の座面を開けると、授業参観の日みたいな華やかな香りがパアッと空間に広がる。木でできた四角い箱のなかにはパルファムやマニキュアの小瓶がガチャガチャと詰まっていた。子どもの私にとって、それは宝の山のように魅力的だった。

小瓶を手に取ると、使われなくなって一体どれだけ経っているのか、透明な液とパール剤が2層に分かれていたり、薬剤が揮発して固まり使い物にならなくなっているものが多かった。
それでもひとつひとつ手にとって確かめてゆくと、時々かろうじて生きているものがあるのだ。小瓶を上下に振ると、金属のボールが小さく音を立て、ラメがキラキラと対流した。

母がネイルをしているのは一度も見た記憶がない。スカートも履かない人だった。
母のガンが進行し、意識もなくなっていよいよ……という頃、幼少期に母と仲が良かったという遠縁の親戚のおばちゃんがお見舞いに来て、涙ぐみながら昔の話をしてくれた。

「いつもオシャレで、いまパリで流行しているのだと、二色のマフラーの巻き方を教えてくれた」
「吉田拓郎の追っかけをしていて、一度ライブを見に出たらしばらく帰ってこなかった」
「一人でも楽しそうで、およそ家庭を持つタイプには見えなかった」
「突然、結婚して子どもを産むと聞いたときにはびっくりした」

“母”としてしか認識していなかった人が、一個人としてディディールを帯びてゆく。
母は私に「子どもが欲しかったんや」と言っていたけれど。この人の語る母も、きっと本物の母なのだろうと思いながら聞いた。

三人の子どもを育てるのに必死で、オシャレや、アーティストの追っかけなどの趣味を離れざるを得なかったのだろうか。
……いや。
洋裁、ステンシル、ガーデニング、アクアリウム、麻雀、ゴルフ、スキー。
母の趣味ならいくらでも思いつくから、単に年齢や状況に応じて自然と趣味が移り変わっただけなのかも。

母は、母の好きなものを大切にできたのだろうか?
「あんたらが一番大切やったから、べつにええんや」と言うだろうか。
確かめる術はもう無いけれど、マニキュアを塗って、二色のマフラーを巻いて、めいっぱいオシャレをしている母を見てみたかったな、とは、今でも思う。

 

私がネイルを変えると、一番に気がつくのはいつも3歳の長女。
朝起こすと第一声が「あっ、ちゅめの色がきらきらに変わったね!」なのだから、本当に細かいところをよく見ている。

休日には引き出しから出してきたマニキュアの小瓶を並べ、
「おかあしゃん、次は~ このピンクと~ このピンクを塗ってほしい」
「お花のシールを貼ると~ 可愛いと思う!」と、娘がプロデュースしてくれる。

世の中には母親がネイルを塗っているとよく思わない人もいるらしいけれど、他人がどう思おうが別にいいや。それで私の“本当”が揺らぐわけじゃないし。

「大きくなったら~ てくちゃんも、爪をキラキラにしゅる」と、憧れを語る娘を見ていると、自己を保つためのネイルが自己満足以上の価値あることのように感じる。

母には、母の好きなものを大切にしてほしかった。
だから私は、私の好きなものを大切にする。
そして娘には、娘の好きなものを大切にしてほしい。
好きなものは移り変わってゆくけど、いつか、たまたまお互いの”好き”が一致して一緒に楽しめたら素敵だと思う。

未来。もしも、たとえば、娘が「お母さんは利き手の爪が下手だから塗ってやろう」なんて言う日が来たら。
私はちょっと、泣いてしまうかもしれない。