劇団維新派「アマハラ」を観た

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ああああ~~~~。
十数年間追いかけるともなく追いかけていた劇団維新派の最終公演、アマハラを見に行ってきました。

舞台は白塗りの少年たちの呼吸から始まります。
呼吸の連なりが波の音に聞こえるだなんて知らなかった。

私は屋台村(←日本とは思えない雰囲気ですごいんですよ)で買った温かくてうまい謎のスープを飲み舞台を眺めながら、実母が息を引き取るその時、病室にいる親族のみんなで母の呼吸に合わせ「スゥー…ハァー……」と呼吸を繰り返したことを思いだしていました。
余談ですけどほんとうに、「スゥー」で終わるんですよ。人間の命は。がちで息を「引き」「取る」の。
そういう個人的な体験に重ねて、今年6月に亡くなられた維新派 主宰の松本雄吉さんを想わずにはいられなかった……。

人物に感情移入させてくれる作品ならいくらでもあります。
でも維新派は、いつも神様の視点で世界を眺めさせてくれました。

「カンカラ」は瀬戸内の工業発展と潤いと斜陽の物語だったし、「キートン」はアメリカの先住民と移民の物語だったし、三部作で構成された「ノスタルジア」は日本からアジア南米を渡った主人公の人生を追うとともに20世紀の人間の有様の全般を描いていたし、「透視図」は大阪の人と水路の歴史のお話だった。
(↑どうでもいいけどここの文章、見てきたすべての作品に触れたくてめっちゃ長くなったからだいぶ削った)
今回の「アマハラ」は移民として南の島々へ渡った日本人の人生というミクロ視点と国の思惑というでかい枠組みの視点が交錯する物語でした。

「トウヤ トウヤ」と渡る舟。(1900年代に運行していた車載客船の洞爺丸の名前からきていると思われるが、舟が波を切る音にも聞こえる)
「おーい」と呼ぶ声。
半ズボンの少年ワタルくん。
維新派にはすべての作品を通じ繰り返し登場するモチーフがあるけれど、芝居を見る我々は神の視点であると同時に、舟に乗ってあらゆる時代や場所をゆく少年ワタルくんでもあったのかもしれないな……。
会場への道々、平城京跡の平原に細く渡された橋と小さな船のオブジェと、廃船を模した舞台客席の形容とを合わせて考えると腑に落ちるものがあった。

ワタルくんが舟で行くのは、海だったり、川だったり、島から島だったり、とある時代だったり、あの世とこの世の狭間だったり、いろいろでした。
呼び声は特定の誰かに応えてほしいという思いが込められていたこともあったし、誰でもいいから応えて欲しいという時もあった。
わかる、わかるよ……。私もそういう祈るような心地で誰かを呼ぶこと、あるもの。

とにかく維新派には人々の息づく様子が、歴史が、世界がギュッと凝縮されていて、言葉のコラージュや声の重なりや演者の身体能力でもって描き出される様はいつも美しくて美しくてたまらなかった。
これが今後見られなくなるということがまだ信じられないし、子どもたちに見せてやれないのだと思うとひたすらに惜しいです。
似たようなものを探しても全く思い当たらないのがすごい……なんだよう、もう……唯一無二かよ。

まあなー、しょうがないな。松本さん、死んじゃったからな。
しょうがないから私は自分の人生に戻るわ。
維新派は白塗りでガチャガチャしていて異世界のようであったけれども、この世の人間のことを描いていたのだから、自分の人生に戻ることで私も維新派 松本さんの描いてきた世界の一部になるとします。

死んだらなんになる
死んだら骨になる
死んだら土になる
死んだら花になる
アマリリス アネモネ ベニリンドウ
ななしはいや
ななしはいや
覚えていて

さようならこんにちは私の隣にあった異世界。

※アマハラは2010年に岡山県犬島で上演された「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」を再構成した作品