男女の差異の話と、突然のズートピア感想

昨今、「女が……」「男が……」と言ってはならないかのような風潮があって難しい。
たしかに、男女の脳に違いはないといった研究結果が発表され、それらを謳う論説がニセ科学と扱われつつある。
けれど私は、生活の中でも相談業という仕事の中でも、「社会的に求めらた悪習が性差の根源です」と言い切るには無理がある男女の振る舞いや考え方の差を感じている。それに、エビデンスを軽視して申し訳ないのだけど、また同じように浸透した論説が覆ることもありえるってことだし案外あてにならないんだなあというのが率直な感想。
そもそも脳に違いが無いから男女の差異はない、と結びつけられるもんなのか?? ……よくわからない。

twitterを見ていると「幼児期に性差は無い」としたい人や、性差をコテンパンにのしてしまいたいの声を見かけるが、その人の個人的なトラウマや怒りを乗せてきていることも多く、この件はノイズが多くて本質が見えてこない。
それだったら目の前にある現実の方がまだ信じられる。

たとえば、保育園の娘のクラスが今年はたまたま同月齢、現在1歳2~4ヶ月のメンバーでかたまってるんやけど、近頃は女の子の自我の芽生えがすごい。
「あたち、あたちあたち!あたち!!!!!!」て感じ。
私が娘の送迎に行くと、女の子たちが扉まで寄ってきて、ニコニコして、横にいる女の子をドーンと突き飛ばしたりして、こっちの肝が冷える。
男の子はというと、これまでのようにぽんやりしている。
この傾向は私のような素人が見ていても感じるし、専門家である保育園の先生も「保育園ではどの学年でもそう。なんでも女の子の方が早くって……。この自我の芽生えがイヤイヤ期に繋がりますが、早く始まる分、女の子の方が早く終わる傾向です」と言っていた。

また、こんなこともあった。娘が誕生した当初、昼夜問わず他の病室からけたたましい赤子の泣き声が聞こえているのにうちの娘の泣き声があまりにか細いもんで、朝一番の、産婦ベビー全員そろっての授乳室で、看護士さんに「大丈夫でしょうか」と尋ねた。「いまたまたま、浅野さんのところ以外は全員男の子やねん」
男の子は泣き声が大きく、お乳を吸う力も強いらしい。
なるほど、授乳室では乳首が血だらけで「いたいよう…」と弱音を漏らすお母さん方が看護婦さんのケアを受けていた。わたしもまあ乳首は皮がむけて痛かったけど、男児を産んだお母さんよりましなため後回しだった。

生まれつき男女で力の差があり、1歳の時点で自我の発達に差異があるなら、10年20年を経た時のそれはいかほどだろうか。

……そういうわけでどんなわけで、脳がだとか男女とはみたいな話は、“鵜呑みにしない” “自分と違う性を持って生まれた人を理解するための足掛かりとして上手に利用する”でええんちゃうかなと考えている。今のところは。
(もちろん、いわゆる女性的な傾向、男性的な傾向に当てはまらない個性を持つ女性や男性だって沢山いるし、性別よりも個性が重要視されてしかるべきだとは思っている)

突然映画の話になるけど、ズートピアで最後に「偏見はなくならない」と言い切ったの、あれは本当に素晴らしいよ。
偏見とはレッテルであり、レッテルとはつまり、経験の整理でしょう。
“先入観を持つな(できるだけ手放そう)”ならわかるんだけど、「先入観は悪」までいったら“あらゆる経験を活かすな”と同義になってしまう。
その点、ズートピアは「偏見はなくならない(≒レッテル、ラべリング、先入観は当然ある)」と言い切った上で、「でも負けるな(応じる必要は無いですから立ち向かいなさい。あなたはあなたのままでいいですよ)」とまとめられていて本当に最高。

男女にしろ、それ以外にしろ、各々が「偏見は偏見であるから、実際に目の前にいるその人自身を見て、尊重しよう」という意識を持てたらいいね。
そういう、お互いの違い(個性)を上手に認められる世代を育てたいな。
まずは、生活のあらゆるシーンで、自分の中にある偏見を見つめるところからだな。