蓋をするだけ

近頃はお洋服や雑貨を見ても、何が欲しいかサッパリわからない。
自分のものなんかより、子どものお洋服やおもちゃを買いたい。
寝るにも食うにも頻繁に一時中断すること、言葉の通じる相手がいない生活にもすっかり慣れて、さびしいと思うことはなくなった。

無私無欲にただ愛を注ぐ暮らしも悪くはないけれど、いつか、さてそれでは己を生きようと立ち上がった時に、大事な感覚が死んでいるといけないなあ、と最近意識している。
自分は何を好きで、何を嫌いで、何をしたくて何をしたくないか。
軸を無くすと、親は子に依存し始めるのだろうと思う。

それはいけない。と、頭で分かっていても、実際に赤ちゃんが親に求める愛情は、「ずっと構ってほしい、ずっと抱っこしてほしい、ずっと見てて欲しい、ずっとずっと絶え間なく愛情を注いでほしい」と、依存スレスレのラインなんだよね~。
要望に応えようと頑張るあまり、「もっと自分の時間が欲しい、自分の人生を歩みたい」という気持ちに止めを刺して、自分の人生の二の轍は踏ませまいと子の行き先を操作しようとしてしまったり、子に叶わなかった夢を着せてしまう親御さんのこと、「ないないありえない」とは笑えないな。
近頃じゃ “毒親” なんて辛らつな言い方をするけど、そちら側に転ぶのは想像よりうんと容易いのではと最近感じるよ。

自分の軸を無くさないために何ができるかな……と、考えてみるも、実際の生活を顧みるとほんとできることが少ないんだけど、ひとまず私は「おいしそう。いただきます。おいしい!ごちそうさま。」の感覚を大事にすることにしました。

ご飯自体がタスクと感じられてピンとこなくても、時間がなくても、食事の途中でいくら赤ちゃんの為に箸をおくことになっても、「おいしそう」「いただきます」「おいしい!」「ごちそうさま」を唱えるの。
あれもこれも終わらずヌメヌメとフローリングを這う毎日に少しのけじめがついて、ご飯を食べるそのひと口が自分のための時間になるように。

自分の時間が欲しい、自分の人生を歩きたい、という気持ちを殺さずに、ただ蓋をして、時を待つ。