誰が為に愛するか

曽野綾子さんのエッセイ、「誰が為に愛するか」の一節がしみる。昭和45年の本ですって。

『失恋は一人の人間についての評価を完結させる魔術である。

人は関わり合う限りその評価が刻々と変わって行くのを免れ難い。

しかし失恋は相手の印象を石に刻みつける作業に似ている。
もはやその価値、その横顔は略々永遠に変わらない。

最も大切なのは、これまでの失恋の相手は、本当にその人がめぐり逢って
結婚すべきだった相手のところまで、“彼、または彼女を導くのに
必要な道標だった”ということである。

全てのものには時期がある。旧約聖書の伝導の書には素晴らしい一説がある。

「天が下のすべてのことには季節があり 全ての業には時がある

生まれるに時があり 死ぬに時があり
植えるに時があり 抜くに時があり
殺すに時があり 癒すに時があり
壊すに時があり 建てるに時があり
泣くに時があり 笑うに時があり
悲しむに時があり 踊るに時があり
抱くに時があり 抱くをやめるに時があり
捜すに時があり 失うに時があり
保つに時があり 捨てるに時があり
黙るに時があり 語るに時があり
愛するに時があり 憎むに時があり
戦うに時があり 和らぐに時がある 」

もう三年遅くめぐり逢っていれば、あるいは結婚したかもしれない相手と、
少しばかり早く会いすぎることもある。

しかし同じ梅の実でも未熟なものは危険なのだ。
同じ相手でも時が来ぬ前の恋はうまくいかない。

道標は暗い道を歩くものの心を捕えるが、道標に向かって突進しては、
飛行機でも船でも航路を踏み外す。

道標は静かに見送って走らなければならないのである。

それがいかに辛くても。』